萌香は秘書として、久我製薬株式会社に勤務することとなった。会社で萌香と翔平が夫婦であることは公にはしていなかった。
そこで、久我翔平CEOの推薦で入社した女性のことを快く思わない社員は多かった。特に秘書室はその話題で持ち切りで、萌香がCEOの愛人ではないかとも噂された。
「あら、ごめんなさい」
萌香が重役に提出する資料を運んでいると、茶盆を持った女性が肩をぶつけて来た。ハラハラと舞い散る紙。資料には緑茶のシミが出来、使い物にはならなかった。萌香は(・・・またか)と溜め息をつき床に屈み込んだ。コピー用紙に手を伸ばすと、それを黒いハイヒールが踏みつけた。栗毛の巻き髪、ゴージャスな美女、名前を佐々木京子といった。
「せっかく作ったのにねぇ、会議に間に合うかしら?」
佐々木京子は、翔平の第一秘書だ。今回の人事には不満がある。これまで尽くして来たCEOの隣に寄り添うように立つ萌香が気に入らなかった。けれど、翔平はそれが狙いだった。秘書たちを煽り、萌香が秘書室で虐められることを見越して採用した。
「あんた、久我さんの親戚かなにか知らないけど生意気なのよ!」
「きゃっ!」
案の定、彼女たちは萌香を虐めの対象として日頃の鬱憤を晴らし始めた。その背後には必ず佐々木京子がいた。自分では手を下さずに、壁に寄りかかって腕を組み、人ごとのように傍観していた。「もう、やめて下さい!」
萌香のリボンタイは解け、ブラウスはシワだらけ、タイトスカートは埃だらけになった。そこで佐々木京子は髪を掻き上げた。
「もうやめてあげなさいよ」
佐々木京子が声をかけると、秘書たちはその手を止めた。そして萌香から手を離し、彼女のために道をあけた。ロッカールームの端からコツコツと黒いハイヒールの音が響いて来る。萌香は身体の痛みと、緊張に震えた。佐々木京子は腕を組み、萌香を睨んだ。これまで翔平の信頼を一身に受けてきた彼女にとって、突然現れたこの新入りが我慢ならなかった。
「ねぇ、久我さん」
彼女は萌香の鼻先をピンクベージュのネイルで指さし、口角を片方上げた。
「な・・・んでしょうか?」
彼女は屈み込むと嫌らしく笑った。
「わんって言ってみて?」
「え?」
「うちのパグちゃんでも出来るわよ?三回まわって、わん!簡単でしょ?」
萌香は悔しさで下を向いた。握り拳を作り、涙が出そうになるのをグッと堪えた。
「ほら、言ってご覧なさいよ、三回まわってわん!」
萌香が下を向いていると、佐々木京子は指先で顎をくいっと上げ、優雅に微笑んだ。
「出来ないの?」
次はどんな仕打ちが待っているのだろうか?萌香は目を見開いて彼女を凝視した。唇が震える、頭が朦朧となってどうでも良いような気がしてきた。
(わん、て言うだけじゃない・・・それくらい)
萌香はゆっくりと立ち上がった。萌香は唇を噛み、拳を握り締めた。屈辱が胸を締め付ける。でもこれで終わるなら・・・。
「わ・・・・・」
「聞こえないわよ?」
誰も助けてくれない。この場所に、味方は一人もいない。そう思った萌香は、悔しさで唇を噛みながら「わん」と小さな声で呟いた。佐々木京子の唇がニヤリと歪み、周囲の秘書たちがクスクスと笑う。萌香は目眩を感じ倒れそうになった。
コンコンコン!
「なにを騒いでいるんだ!」
慌てたようなノックが三回鳴り、ロッカールームの扉が勢いよく開いた。そこにはマスターキーを持ったビルの管理者と、翔平が息を切らせて立っていた。翔平は厳しい顔で秘書たちを睨みつけた。秘書たちはその場に凍りついた。
「なんなんだこれは」
「あ、久我さんが貧血で倒れちゃって」
佐々木京子は萌香を抱き止める格好で、その身体を支えていた。
「おまえたち、今度こんなことをすればどうなるか分かってるな!?」
「も・・・申し訳ございません!」
それまで威勢の良かった秘書たちは縮こまり、深々とお辞儀をした。
「佐々木!秘書はおまえがしっかり管理しろ!」
「かしこまりました」
佐々木京子は、虐めには我関せずといった表情で微笑んだ。ちっ。翔平は舌打ちをすると萌香を抱き上げながら、秘書たちを鋭く睨んだ。その瞳には、怒りと共に、どこか計算高い光が宿っていた。
(・・・ここは?どこ?)
ふわりと包み込むようなシダーウッドの香りがした、懐かしい香りだ。萌香が気づくと、そこは車の後部座席だった。革独特の匂いと手触り。運転手は白い手袋を履いていた。翔平が送迎に利用している社用車だ。そして、萌香が身体を預けていたのは、翔平の肩だった。
「あっ!ご、ごめんなさい!」
また翔平に怒鳴られるかと萌香は身をすくめたが、返って来たのは思いも寄らない優しいものだった。
「大丈夫か?あまり俺の手を煩わせるな」
萌香は我が耳を疑った。大丈夫か。そんな優しい言葉をかけられるのは何ヶ月ぶりだろう。思わず涙が溢れ、隣からハンカチが差し出された。それは自分が洗い、アイロンをかけている、ただのハンカチだったが、特別な物のような気がして萌香は胸に握り締めた。
第四十章萌香は港区の三十五階建てマンションを振り仰いだ。風が彼女の長い髪を捲き上げ、まるで自分を拒絶するかのような冷たい箱がそこにあった。ここはかつて萌香の自宅だった。エレベーターのガラスに映る彼女の表情は、毅然として美しかった。真実の愛を手に入れ、克己の母となった今、彼女は過去の自分とは違っていた。ショルダーバッグには、萌香のサインが入った離婚届が静かに収まっている。萌香は今、翔平という過去と決別する覚悟を固めていた。エレベーターが上昇する中、彼女は克己の笑顔と克典の温もりを思い出し、胸に力を取り戻した。ダウンライトが点る廊下に、ハイヒールの音だけが悲しげに響く。見慣れたはずの我が家の扉は、別世界へと繋がる門のように感じられた。萌香は深呼吸し、離婚届を握りしめた。翔平との対峙は、彼女の人生を取り戻す最後の戦いだった。扉の向こうで、過去の呪縛を断ち切り、克典と克己との未来へ踏み出すために、萌香は一歩を踏み出した。インターフォンを押す彼女の瞳には、希望と決意が宿っていた。「・・・・はい」「萌香です」「開いているから、入れ」「分かりました」
第三十九章萌香が日本へ発つ日が決まった。その夜、萌香は初めて田辺克典と結ばれた。克典の優しい指先は萌香を蕩けさせ、熱い唇は彼女の身体に赤い花びらを散らした。それはまるで二人が二度と会えないことを予見するかのように、萌香の奥深くまで情熱的に刻み込まれた。抱き合いながら、萌香は克典の鼓動を感じ、未来への不安と希望が交錯した。克己の寝息が静かに響く部屋で、二人は互いの存在を確かめ合った。「パパ、ば、ば、」「うん、バイバイだね」空港のロビーで、萌香に抱かれた克己は、克典の袖を小さな手で握り、愛らしく微笑んだ。萌香は目を細め、二人のやり取りを交互に見つめた。克己の無垢な笑顔が、彼女の心に温かな光を灯した。「克典くん、なに、永遠の別れみたいな顔しちゃって」「そうかな・・・」「大丈夫よ、帰ってくるから」搭乗チケットを手に、萌香は背伸びして克典に軽く口付けた。別れの瞬間、克典の瞳に宿る寂しさを感じつつ、彼女は微笑んだ。萌香と克己を乗せた飛行機は、カリフォルニアの青い空
第三十八章萌香は眩しい分娩台の上にいた。それはカリフォルニアの明るい太陽を思わせる光で、彼女の顔を白く照らし出した。波のように寄せては返す陣痛に耐えること四時間、額には汗が滲み、苦悶の表情が浮かんだ。唇を噛みしめ、痛みに耐えるたび、萌香の心には過去の記憶が蘇る。翔平との三年間の結婚生活は、愛というより重圧に満ちていた。すれ違いの日々、冷えた会話、互いの心の距離。だが、その中で芽生えた新しい命は、彼女に光をもたらした。田辺克典との出会いは、萌香の人生に新たな色を加えた。彼の穏やかな笑顔、優しい言葉が、凍てついた心を溶かしたのだ。今、陣痛の合間に萌香は思う。この赤ん坊は、過去の傷を癒し、克典との第二の人生を照らす希望の光だと。痛みがピークに達する瞬間、彼女は力を振り絞り、新しい命を迎える準備をした。その小さな泣き声が、萌香の心に響き、未来への一歩を刻んだ。「萌香さん、男の子ですよ」「男の子・・・・・」「とても元気だわ、頑張ったわね」萌香は涙を流し、赤ん坊のぬくもりを感じた。産室の静寂に小さな泣き声が響き、彼女の心を温めた。そこへ会社から駆け付けた田辺克典が現れた。手に深紅の薔薇の花束を持ち、穏やかな笑顔で萌香を見つめる。「萌香ちゃん! 男の子だったんだね!」
第三十七章萌香の胸は早鐘を打った。翔平が、自分が妊娠したことを知ったらどんな反応をするだろうか。彼はこの子を自分の子供だと認知し、久我家の跡取りとして、取り上げるかもしれない。萌香は、それだけはなんとしてでも避け、赤ん坊を守りたかった。緊張で口の中が渇いた。いつまでも居留守を使える訳もなく、萌香は震える指先で応答ボタンを押した。「どちら様でしょう?」萌香の他人行儀な返事が気に食わなかったのか、翔平は先の尖ったナイフを突き立てるように激しい口調で萌香を罵った。彼女はその言葉を聞いているだけで、三年間の辛く惨めな結婚生活が瞼の裏に浮かんでは消えた。唇を噛み、握り拳を作る。萌香は、母として毅然とした態度でモニターに映る翔平に話しかけた。「もう、お会いすることはありません。どうぞお引き取り下さい」「萌香! お前はまだ俺のものだぞ!」翔平はポケットから封筒を取り出すと、彼のサインが空欄の離婚届を広げて見せた。萌香は、まだ離婚が成立していなかったことに衝撃を受け、その場に座り込んだ。翔平の「不受理申出」が、彼女の自由を阻んでいた。あの夜の暴力、復讐に囚われた彼の執念が、なおも彼女を縛る。萌香は腹の子に触れ、決意を新たにした。「この子は私
第三十六章萌香がカリフォルニアでつわりで苦しんでいる頃、翔平は日本で彼女を探し回っていた。二ヶ月前、突然ポストに投函されていた萌香からの離婚届に衝撃を受けた。翔平は、勝手に離婚届を出されないよう、区役所で“離婚届不受理申出”の手続きをした。(どこに行ったんだ!)萌香の母親が入院していた病院に向かったが、ベッドはもぬけの殻で、ビープ音のない白いベッドがあるだけだった。ナースステーションにどこに転院したのかと尋ねたが、「個人情報ですから」と事務的な返事が返ってきた。当然、一千万円近くの入院費用は一括で支払われていた。翔平の胸に怒りと焦りが渦巻く。翔平は、公証役場で萌香に声をかけた田辺という男を思い出した。田辺克典はオークションで一千万円を支払う財力を持っている。萌香の母親の入院費用も、田辺が工面したに違いなかった。翔平は田辺克典の足取りを追うため、知人の調査会社に連絡した。「絶対に見つけ出す」ところが、埼玉県川越市にある田辺の実家は古びた一戸建てで、到底、金回りが良いとは言えなかった。家から出てきた年配の男性、おそらく
第三十五章萌香は、彼の復讐が盲信であったにも関わらず、離婚に応じない翔平の姿勢に苛立ちを感じるようになっていた。そこには僅かな情が陽炎のように揺れていたが、それもやがて儚いものへと変化した。萌香は、サインをした離婚届を翔平のマンションのポストに入れた。もう後戻りはしない。確固たる思いが萌香を支配した。「お待たせ」「早かったね」「ポストに入れるだけだから」彼女は翔平から逃げるため、田辺克典とアメリカに渡航することに決めた。母親の多額の入院費の支払いも済み、最先端の治療を受けられるようカリフォルニアの病院に転院する手続きも済ませた。「ありがとう、田辺くん」「いいんだよ」田辺克典は、翔平との離